ある企画が始まる前に、語っておきたいこと⑤-生きていた”こと”は続いている
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ある企画が始まる前に、語っておきたいこと⑤-生きていた”こと”は続いている


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ずっと「死」を軸に、歌を書いてきたところがある。

「死」という言葉が表面的に漂わせる非日常感だったり、暗さだったりをイメージすると驚きがあるかもしれないが、「死」とはもっともポピュラーで、普遍的で、ありふれた(ゆえに、避けることのできない)出来事だ。

自分は、お茶の間に近いとか、老若男女に愛されるとか、そういった形容をされる(ありがたいことだ)グループに長く所属してきた。「死」の表面的なイメージとは遠いところにあるものを書いていると思われることに不思議はない。

でも、前述のように「死」とは、もっとも広く「誰にでもあてはまる」出来事であるから、「万人に愛される歌を」などと口にするときは、「愛」とか「恋」とか「友情」とかよりも以前に、もっと手前の、入口のところにあるテーマだと思う。避けて通れない。

「死」とはありふれていながら、特別な出来事だ。
それは生きている以上、誰もが避けられない、誰もが目の前にしている出来事であるのにかかわらず、誰もが「まだ経験したことのないもの」だからだ。

だから、これほど普遍的なことなのに、”畏”れも、”恐”れもあり、不可解なものだ。それは今も。

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今も、自分のなかには十分に”若さ”と呼べるものが残っているけれど、少なくとも20代の頃までは、”若さ”そのものが自分であるくらい、”若さ”のなかを生きていたと思う。そしてそれは、その瞬間だけのものなのだという切なさを、常に寄り添わせていた。永遠ではないことに対する抗いみたいなものが、自分にもあった。(くどいようだが、それは今もある。素直な欲望として若くいたいし、長く生きたいという気持ちは、無いなんて言うのは正直じゃないと思う)

だから「死」について考えるとき、それはいつも、自分という個体の視点からでしかなかった。

いつか終わりがくる。この時間が伸びていく先に、終わりがあって、その終わりそのものが「死」なのだと、浅はかにとらえていた。別に間違っていたわけではないと思う。終わりとしての「死」は、「死」の重要な一面だ。だが”一面”であることに気が付けていなかっただけだ。

歌を書くときに、必ず「終わる」ことを意識した。
それは「愛」について書くときも、「恋」について書くときも。

結婚をテーマにしてくれと言われた曲にまで「やがて別れが訪れても」と入れた。結婚式で歌いにくいと笑われた。


この曲を書いたときも、もう帰れない場所、もう会えないひとを、どこか意識していた。「死」とはそういう、分かつもの、であると思っていたから。


終わりとしての「死」を意識して、ずっと書いてきたけれど、30代に差し掛かる頃に、終わりの”あと”を考えるようになった。身の回りでいくつか「死」があった。なにより震災もあった。残されたほうから見た「死」もあることに気がついた。とても当たり前のことだったけれど、”若さ”のなかで自分の「死」(=つまりは「生」)を意識することに精一杯だった頃には気がつけなかった。



むしろ、いまだ生きている、「生」のなかにいる自分たちが、常にかたわらにあるものとして経験している「死」というのは、先に逝ったひとたちの背中を思い出しながら、「残った」側の人間として見つめる「死」なのではないか。

僕らは、誰しもが「残った」側の人間だ。

ならば歌にする必要があるのは、やがて訪れる「死」だけではなく、すでに訪れてしまった「死」、そしてその「死」とともに生きなければならないひとたちにとって必要となる歌なんじゃないかと思い始めた。

なによりも、自分が、そういう歌を必要としているのではないかと。


息子が生まれて、さらに考えは前に進んだ。

小さい息子を膝上に乗せて、その背中をながめながら、少しだけこの子の未来を考えていると「ああ、自分の命以上の未来について考えているのか」と思った。
自分の「死」のあとまで、想像がつながっていった。

そう考えたとき、自分もまた、誰かの命のあとの未来を生きていると知った。

モノとコトの概念。

自分は生きている。そしていつか死ぬだろう。
自分の個体(=モノ)としての命は限りがあるが、自分が生きていた”こと”は、おそらくもう少し長く続いていく。

祖母はもうこの世を旅立っているが、今でも、祖母が生きていた”こと”は、自分のなかに続いている。モノである命は「死」を迎えるが、物語となっていく命は、それがたとえ「死」を迎えても、続いている。

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祖母もまた、自分が会ったことのない、多くのひとたちの物語のあとを生きていたはずだ。そしてその先に、母がいて、自分がいて、やがて息子がいる。

長い長い、大きな物語が生き続けている。そのなかに自分が、あるいは自分たちがいるのであれば、「死」はけして、すべてを分かつものではないのではないか。

「死」は終わりではないのではないか。


物語という大きな広場に、ひとを集めていこうと、思うようになっていった。


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