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松井五郎さんにきく、歌のこと 2通目の手紙「書くことは、すなわち、書かないこと」 松井五郎→水野良樹

2020.04.27

作詞家の松井五郎さんに、水野良樹がきく「歌のこと」。
音楽をはじめた中学生の頃から松井五郎さんの作品に触れ、強い影響を受けてきた。
もちろん、今でも憧れの存在。
そんな松井五郎さんに、歌について毎回さまざまな問いを投げかけます。
往復書簡のかたちで、歌について考えていく、言葉のやりとり。
歌、そして言葉を愛するみなさんにお届けする連載です。

2通目の手紙「書くことは、すなわち、書かないこと」
松井五郎→水野良樹

水野良樹様

 お変わりありませんか?

 朝目覚め、窓を開けると射し込む光。そこまではかつての日常となにも変わらないのに、テレビをつけた途端、そこにまるで亀裂が走ったように、現実が雪崩れ込んできます。いま起こっている事すべてが、悪い夢だったとなればいいのに。そんな思いで誰もが毎日を過ごしているのではないでしょうか。歌がなんの役に立つのか?自問自答の日々。自分の捕らえた言葉の拙さや脆さが気になり、その歌にどうか免疫力を高める効果が僅かでもありますようにと祈るばかりです。

 さて、前回のお手紙から、まずメロディとの向き合い方について少し書いてみたいと思います。

 頂いたお手紙にあるように、僕はどこから詞を書きはじめますかという問いに「ブレス-息継ぎ-」とよく答えています。ブレスは言葉でも音でもないだろうと言われてしまいそうですが、確かに、そこに表記上は無です。ただ、言葉を発する際や歌を歌い出す瞬間には誰もが息を吸い込んでいるはずです。それは「霊」のようなものだと思っています。ですから、言霊という言葉があるように、旋律と歌詞にも「霊」のような、歌が生まれる瞬間に必要なエネルギーが宿っていると思います。メロディをつかむ上でこれはとても大切な事ではないでしょうか。

 前回のテーマ「書かない事」とも繋がっていますが、見えないから、書かれていないからといって、ないわけではない。音そのものにも性格があり、その性格を形成してる要素には無も含まれているはずです。間と言ってもいいでしょう。

 平原綾香さんの「明日」という歌があります。この歌はイントロがなく、彼女の深いブレスからはじまります。僕はまさにそこに-歌霊-が宿っているように聴こえました。譜面上は休符になっているかもしれません。しかし、表記されない音がそこに在るのだと思います。曲先での作詞の場合、メロディを聴いて、最初にする作業が、その表記されていない音を捕らえることかもしれません。それが「ブレス-息継ぎ-」という答えの意味です。

 制作現場がデジタルになって便利になった事は多くありますが、この無や間を捕らえる作業は少なくなってきたように思います。コピー&ペーストは効率的ではあっても、歌の温度が失われてしまうようにも思います。深いブレスからの強い言葉を想定して書いても、無機質に音圧が高いだけの歌になっている事もしばしば。呼吸をしてない歌を多く聴くようになった気がしませんか?

 -歌霊-なんていう表現だと、少し観念的な話で、わかりにくいかもしれませんね。なので次は具体的な話を。

 前述のブレスとも関連がありますが、当然音数を数えなくてはなりません。その時に重要なのは、例えば、9個の音のフレーズがあるとします。それがブレスや発声を考えて、どう文節を切るのがいいかをまず分析していきます。

A 000000000 9
B 0 00000000 1-8
C 00 0000000 2-7
D 000 000000 3-6
E 0000 00000 4-5
F 00000 0000 5-4
G 000000 000 6-3
H 0000000 00 7-2
I 00000000 0 8-1

つまり9個の音の集まりには、9種類の文節のバリエーションがあるわけです。どの区切り方が歌いやすく聞きやすいか。詞以前にメロディには性格があるはずです。その性格を見つけて、それに適した言葉割りを考えるわけです。

「あなたに逢いたくて」というフレーズを詞として思いついたとします。これを上の音の言葉割りに当てはめて考えて見ると。

 勿論、それぞれの音の長さにもよりますが、Aは問題なく歌いやすい歌詞になるはずです。Cはどうでしょう?「あな/たに逢いたくて」Dは「あなた/に逢いたくて」Eは一番歌いやすいと思います。「あなたに/逢いたくて」・・・こうして考えて行くと、メロディとの関係性をより良く満たすフレーズを探すのが作詞であるとも言えます。ですから、思いついたフレーズがどうしてもそのメロディと相性が悪ければ、別の選択肢を考えねばなりません。1番では歌いやすいのに、2番では歌いにくいなんて歌もありますよね。それは、譜割りと言葉割りの相性が合ってないからだと思います。

 シンガーソングライターの場合、自分でメロディも作るので、多少の変更は自身で折り合いをつけていけます。しかし、作詞家は、頂いたメロディに忠実に歌詞を書く事が前提になります。5文字の素晴らしいフレーズを考えついても、メロディが4音しかなかったり6音あったりしたら、それは歌として成就しません。それでも、この呪縛のようなものがあることで、書きやすくもあります。逆にシンガーソングライターは、自由な分、収拾がつかなくなる事もあるのではないですか?

 メロディの性格を分析する課程で、同時に必要なのが、どういった種類の表現或いは言葉が適しているかという事です。感情的な表現か、情景的な言葉か、心象風景・・・話し言葉がいいのか、英語がいいかなど、メロディの抑揚や、歌として発声する時の音圧のような事も考慮する必要があります。更に、母音や子音、濁音や促音便など、メロディの持っている性格を分析する事で、歌としての輪郭を整えて行きます。設計図を描くような感じでしょうか。

 玉置浩二のメロディは音数が少なく、歌詞を書く上では少し難しい作品が多いです。特に安全地帯の頃はロングトーン、つまり一小節に音符ひとつという歌もあります。英語ならはまりやすいのですが、日本語はそうはいきません。ただ、そこは彼の歌唱力と声の威力は助けになりました。1音しかなくても、例えば、「ねぇ」「あゝ」「もう」といった言葉でも、表記以上の感情を伝えてくれるからです。

 あっ、こういう話をすると、松井は凄く幾何学的に歌詞を書いてると思われそうですが、勿論、歌の核、なにを書くべきかといった事は、説明のしようがないので、敢えてこういった話をする事にしています。

 水野君はどうですか?その歌がなぜ生まれたのかを説明できますか?
 そこで今回はひとつ質問を。

 作家と作品の精神の整合性のような事を意識されますか?

 1966年に城卓矢さんが歌われた「骨まで愛して」という歌があります。作詞をされたのは川内康範先生です。1966年に起きた全日空羽田沖墜落事故で、事故現場へ駆け付けた先生が現場を目撃した体験に基づいて書かれたという話があります。また、川内先生は戦没者の遺骨引揚運動もされていたと聞きます。

 こうした逸話を耳にすると、なぜ「骨まで愛して」だったのかがよくわかります。
では、自分はどうだろうと時々考えます。

 仮にすべてがフィクションであろうと疑似体験できたり感情移入できれば、それはいい歌と言えるかもしれません。ただ、その一方で冒頭のメロディの話もそうですが、シンガーソングライターに比べると作詞家はテクニックだけで創作してるようにも思われがちです。川内先生の話は作詞家という立ち位置の精神性について考えさせられます。

「いきものがかり」の水野良樹と作家「水野良樹」の間にはどんな距離がありますか?或いはないのか?

 いまこのような状況で、歌とはなにかを改めて考えています。
 僕らにとっての歌作りは目的なのか手段なのか?
 目的であれば、それは達成しうるのか?
 手段であれば、目的はなにか?
 そんな事を訊いてみたいと思いました。

松井五郎

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ソングライター水野良樹が主宰するHIROBAの公式noteです。 『考えること、つながること、つくること』 その3つを豊かに楽しむための広場=HIROBAをつくっていく試みです。 定期購読マガジン『HIROBA公式マガジン』のご購読もよろしくお願いします。

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